新規サイト005


九日目 佐賀


2016.8.13




 九日目、そろそろ今回の旅行も終盤戦になってまいりました。疲れもそこそこ溜まっているのか、朝まで爆睡です。宿にしている道の駅「吉野ヶ里 さざんか千坊館」は標高が高いので、夜になるとそこそこ涼しくて助かりました。あまりに暑ければエアコン付けようと思っていたんだけど、普通に寝られました。
 ただ、流星群が見られるってことで、昨夜の道の駅はだいぶ騒がしかったですよ。雲が出てきて見えなくなったあとは静かになったけど。



出発
 本日も起床は6時。今日も暑くなりそうだ。

 まずは30分ほど会社PCで仕事をして、トイレ行って洗顔して、それからネコ娘とペンギン姉さんを起こし、出発の準備をする。今日の目的地は近いので、ゆっくり準備をして8時出発。

 8:30、あっという間に到着。今日は吉野ヶ里歴史公園を見学します。今回の旅行は原の辻遺跡も見学したけど、やっぱり下がって行ったら吉野ヶ里遺跡も外せないよね。

 吉野ヶ里歴史公園に早めに到着したのは良いものの、9時開園ってことで駐車場のゲートも直前まで開かないみたい。ゲートの前に数台の列ができてしまいました。



入園
 8:50、ゲートが開き、駐車料金を払って駐車スペースへ。この時間はまだそれほど車は多くありませんでした。が、ぴちぴちに停めるのもビミョーなので、みんな少しずつ間を開けて駐車してます。うちもそうしよー。

 9:00、出発。ペンギン姉さんは黒い日傘で日差しをガード。ネコ娘は暑さにやられて首が斜めになってます。
歴史公園センターの東口から入園。
 歴史公園では日傘や笠を貸してくれました。ペンギン姉さんもネコ娘も黒っぽい服装なので、紫外線は防げるけど暑そう。傘や笠があれば少しは暑さもしのげるかもね。



勾玉づくり
 天の浮橋を渡り環濠入口へ。環濠のまわりには壁が作られ、木がたくさん刺さっています。この木は逆茂木(さかもぎ)というもので、米作りが盛んになるにつれて、水や土地を奪い合う争いが起き、自分たちの集落を守るためにバリケードとして作ったもの。弥生時代は稲作とともに戦争も盛んだったようです。
 入園してすぐだけど、弥生くらし館に行ってみる。ここで勾玉づくりを体験してみようと思うのです。先着300名様って書いてなかったかな?材料があるうちに体験しておこうってことで。でも、気温が上がる前の今のうちに見て回る方が楽なんではないか?という思いも少し・・・。
 では勾玉づくりをやってみようと思います。クマ兄さんはみどり、ペンギン姉さんは黒モザイク、ネコ娘はピンクを選びました。
 まずは鉛筆で石に勾玉の形を書く。続いて、表面がギザギザな岩で勾玉の形に削っていく。
 15分ほどで左の形まで、50分ほどで右の形まで削ることができました。結構、腕が重い。
 さらに削って削って気に入った形になったら、水槽の中で粉を落としながら耐水ペーパーで表面を滑らかにしていきます。表面がツルツルになったら完成。約1時間10分で完成しました。完成版は・・・写真を撮るのを忘れた。
 さて、勾玉を作った後は、ゆっくりと弥生くらし館を見学。魏志倭人伝(右)に邪馬台国のことが書かれているとかで、日本古代史に関する最古の史料なんだって。で、これを読んでも邪馬台国がどこにあったのか分からないってことが、謎めいていて楽しい。

 10:40、クーラーが効いていて気持ちいいんだけど、あまりゆっくりしていると時間が足りなくなっちゃうと思うので、弥生くらし館を出て、南のムラに行ってみることに。



南のムラ
 環濠集落の南部にある「南のムラ」にやってきました。ここは庶民が暮らす村だそうです。人々は農耕や生活に必要な道具を作りながら生活していたそうです。
 南のムラの一つ、「北の一家」に入ってみます。この一家は農作業をしながら、麻布や絹布を作っていたんだって。
 続いて、建物が密集しているエリアに行ってみる。
 続きまして、高床式の住居?こちらには魚や肉の干物?燻製?があったり、畑で採れた野菜やアケビなどの野菜(の模型)がおいてありました。大根も干してあったなぁ。住居じゃなくて食糧庫かもね。

 南のムラはこれくらいで終了。続きまして、南内郭の横にある展示室に行ってみよう。



展示室
 暑い!暑い!と喚きながら南内郭の方へ歩いていく。南内郭の物見櫓が、吉野ヶ里遺跡が大きな村だったことを感じさせます。
では、展示室へ。
 まずは顔抜きパネルで弥生人になってみる。弥生人の平均身長は150p(女性)。ペンギン姉さんとネコ娘の間くらい。ネコ娘って大きくなったなぁ。
 左は九州で初めて出土した銅鐸、の複製。平成10年、吉野ヶ里遺跡の北部の発掘調査で九州初の銅鐸が出土しました。弥生時代後期に埋没した谷に掘られた小穴の中に埋納されていたんだって。下向きに。この出土がある前までは、吉野ヶ里遺跡は銅鐸文化圏外と考えられていたそうで、九州でも銅鐸の鋳造が行われていたことや、銅鐸を用いた祭祀が行われていたことを証明する貴重な資料になったそうです。
 右は貝殻の装飾品。ゴホウラ貝製貝輪、イモ貝製貝輪などが展示されていました。
 イボニシという貝はパープル腺からの分泌液で紫色に染色することができます。イボニシ貝のパープル腺を集め、すりつぶして水で溶き、布や糸にパープル腺液を塗り、紫外線に当てて発色させると、緑や黄から紫に変化していくそうです。左の写真の紫の綱は、貝紫の染色糸なんだって。
 こちらは甕棺。成人を埋葬する大型のもの。甕棺墓は弥生時代の北部九州を中心にみられるそうです。甕の形式から年代を導くことができ、密封して埋葬されることから、人骨や副葬品が残りやすく、多くの遺品が発掘できるそうです。
 吉野ヶ里遺跡では3100墓以上の甕棺墓が発掘され、350体以上の人骨が出土しているんだって。多数の貝製腕輪をつけた人骨や戦争の犠牲者と思われる人骨もあるそうです。
 ところが、吉野ヶ里では甕棺を焼いたり、作り置きした場所が確認できていないとか。どこで作ったんだろうねぇ?
 こちら、ガラス製管玉で作った装飾品を首から下げているマネキン。弥生時代にはガラス製の管玉があったようです。どうやって作ったんかね?



南内郭
 続きまして、南内郭を見学。ここは吉野ヶ里が最盛期だったころ、吉野ヶ里の集落や周囲のムラを治めていた王様やリーダーが住んでいた場所らしい。
 まずは物見櫓に登ってみよう。ねぇ・・・ってペンギン姉さんに声を掛けたら登らないって。ネコ娘も真似して登らないって。いいさ、いいさ、一人で登ってくるよ。
 物見櫓に登って周りを見渡すと、竪穴式住居とその周りの連なっている木の壁が壮観。規模の大きいムラだったんだなぁ、と感慨に浸る。青森の三内丸山遺跡より規模は大きいね。原の辻遺跡よりずっと大きい。
 ある建物では弥生時代の生活の様子を再現していて、少しだけ体験できました。ネコ娘が持っているのは石包丁。これで稲を切って収穫したそうです。石包丁は簡単に作れないのでとっても大事に扱われたとか。
 大人(たいじん)の家に行ってみる。大人とは外交を取り仕切る人。大人とその家族が住んでいる家だそうです。中に入ってみると大人(左)がほかの国の使者(右)から話を聞いているところ。
 外に出て、貸衣装を着て記念撮影。左は女性の服で右は兵士かな。



北内郭
 南内郭に続いて北内郭を見学しに移動。北内郭までは150mくらいの距離なんだけど、暑くて暑くてすごくつらい。日陰があるとつい休んじゃう。
 ようやく北内郭に到着。鍵型に折れ曲がった入口を通って入っていく。敵がまっすぐ侵入してこないようにってことらしい。古代中国の城郭都市の影響を受けているんだって。
 北内郭にはとても大きな建物があります。主祭殿です。ここは吉野ヶ里という国全体の運営に関する決議を行うところ。あと祀りもあったようです。内部に入ってみよう、と言ったらやっぱりペンギン姉さんとネコ娘は行かないって。一人で行くさ。
 二階に上がると会議中(左)。重要な祀りの最中だったようです。吉野ヶ里の王様、リーダー、周辺のムラの代表者が集まっています。それぞれに食べ物や飲み物が出されているようです。

 三階に上がると祈祷中(右)。祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っているそうです。その結果を二階の会議室へ伝えたとか。巫女の一存でなんでも決まっちゃうじゃん。
 あの中の会議で田植えや稲刈りの日取りを決めたり、お祭りの日を決めたり、市を開く日を決めたり・・・となんでも決められたのです。巫女が祖先や神の声を聴くってことが怪しいねぇ。卑弥呼も巫女だったっけ?それとも女王だっけ?



北墳丘墓
 次は北墳丘墓に行ってみます。途中には甕棺が埋葬されているお墓があちこちにありました。
 この側溝のような場所は墓道。墳丘墓の墓参りに来た人達のために作られた道、と考えられています。この道は外環濠から伸びていて、吉野ヶ里だけじゃなく周辺のムラからも墓参りに来ていたようです。
 北墳丘墓は吉野ヶ里の歴代の王様が埋葬されている特別なお墓。発掘調査後、展示するために建物で囲って保存しています。
 内部はエアコンが効いていて見学しやすい。ここ墳丘墓では14基の甕棺が見つかっていますが、甕棺墓列では同じ面積に100基以上の甕棺が見つかっています。ということで、ここには王様などが埋葬されたと考えられています。このお墓は弥生時代中期、紀元前1世紀くらいのものですが、その後はお墓としては使われてなかったようです。
 縄文時代は、人が亡くなると地面に穴を掘って、直接遺体を埋めていたようで、これを土坑墓と言います。そして、弥生時代になると石棺、木棺、甕棺などに遺体を納めて埋葬するようになりました。右側の甕棺みたいにね。この甕棺の埋葬方法は、今のところ佐賀と福岡の北部九州でしか発見されていないそうです。



撤収
 11:50、北墳丘墓近くのバス停から巡回バスに乗る。暑すぎて歩いて帰る気力なし。エアコンの効いているバスで環濠入口まで戻る。あぁー快適だ。
 12:00、歴史公園センターに戻ってきました。ここでアンケートに答えたら、公園産の小麦で作ったうどん、中華麺のどちらかがもらえるとのことで、三人でアンケートに答えてうどんをもらいました。
 後日、自宅で茹でて食べたら、ツルツルな麺で美味しかった。
 吉野ヶ里遺跡を出発後、近所のコンビニでアイスを購入。今日のお昼ご飯は超軽め。夕方早い時間に夕食を予約しているから。カロリー高めのアイスを買っちゃったよ。



筑後川昇開橋
 国道444号線を走っていると筑後川の中に変な橋が架かっているのを見かけました。川沿いの道だけど、ちょっと停車して写真を撮ってみる。あれがたぶん目的地の筑後川昇開橋だろう。それじゃ、行ってみよう。
 昇開橋の近くに行くと「橋の駅ドロンパ」っていうのがあって、駐車場もあるし、トイレも整備されていました。小さな道の駅のようです。それじゃ、橋を渡ってみようよ!って言おうと思ったんだけど、ネコ娘が寝ちゃってるので、ペンギン姉さんは車でお留守番。クマ兄さん一人で行ってきます。
 川沿いの土手に上がってみると、鉄道設備がありました。説明によると、ここには佐賀軌道というのがあったそうです。一頭の馬がお客を乗せた車をひいて、レールの上を佐賀駅から石塚の渡し場まで走ったそうです。
 橋の手前には「もどろみ」っていう駅があった模様。
 では、筑後川昇開橋を渡ってみよう。赤く塗装された鉄橋が素晴らしい!1935年に開通した鉄橋で、現存する国内最古の昇開式鉄橋。中央部分にある長さ24mの稼働桁は48トンあり、機械室の巻揚げ装置でワイヤーを引っ張って23mの高さまで引き上げるそうです。現在でも一日8回ほど上下するみたい。現役ですよ。

 橋の中央部まで行くと、 機械室があってボランティアのおじさんがいろいろ説明してくれました。ついでに呼子のイカについてもレクチャーを受ける。見ごたえのある橋でした。日本機械学会認定の機械遺産。



三重津海軍所
 13:30、三重津海軍所に到着。ここで世界遺産を見学します。が、ここでもネコ娘が爆睡中ということで、クマ兄さん一人で見学に行ってみる。

 ここは佐賀藩が1858年に設立した蒸気船の修理や造船を行う施設。そして、西洋式の船を操船するための教育訓練も行っていた場所。

 修復場と呼ばれる地区(左)は三重津海軍所で運用していた洋式船のメンテナンスを行う場所。船を引き入れ修理する御修覆場(ドライドッグ・右)や修理に必要な部品の補修や製造を行う製作場などがあります。
 三本の白い筋は三連溝状遺構。ここでは炉で溶かした鉄などの金属を据え付けた鋳型に流し込むための施設。炭や炭化物が内部に詰められていて、鋳型が冷えないように炭火で暖めていたようです。あと、鋳型に流し込んだときにこぼれて固まった鉄粒がたくさん見つかっているそうです。

 ということで、三重津海軍所は2015年に明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録されたんですね。

 三重津海軍所は佐野常民記念館のすぐ近くにありますので、駐車場を利用させてもらいました。三重津海軍所にもちゃんと駐車場はあったので、そっちに停めても良かったんだけどね。佐野常民は佐賀の七賢人の一人で、1855年から幕府の長崎海軍伝習所で航海、造船術を学び、三年後にここ三重津に佐賀藩海軍所を置いて伝習を行ったそうです。そんな立派な人の記念館だけど、ネコ娘が起きないので入館せずに出てきてしまいました。
 13:40、出発。今晩の夕飯は呼子でイカを食べよう、ってことで予約済み。呼子へ向かいます。国道202号線で北上。途中眠くて10分チャージを1回。



唐津城
 15:30、唐津市内に到着。唐津街道を走っていると、松浦川の向こうに唐津城が見えてきました。写真が撮りたくて、スーパーに車を停め、唐津城の写真をパチリ。

 唐津城は模擬天守なので入りません。クマ兄さんは、一度だけ入城したことあるけどね。組合執行部をやってたときに、慰安旅行で訪問したことありました。写真を全然撮らなかったので、全然覚えてないけど。



唐津神社
 15:40、唐津神社に到着。向かいの唐津曳山展示場の駐車場に車を停めさせてもらい、唐津神社を参拝します。手水舎はちょっと変わった石ですが、水道の蛇口からジョロジョロ出てるタイプ。
 鳥居をくぐり、拝殿を参拝。唐津神社の起源は、三韓征伐のときに公開の安全を住吉三神に祈願した神功皇后が、帰朝のとき松浦の海辺に宝鏡を懸けて三神を祀ったことだそうです。
 狛犬?灯篭の上にいた狛犬も一芸を披露しています。逆立ち?
 社務所に行って御朱印をお願いする。ちょっと時間がかかるようなので、どんなものが売っているのか物色。ここでは神宮大麻をお祀りしましょうということで、伊勢神宮から毎年全国へ頒布されるお神札だそうです。神宮大麻ってそんなに偉大なものなのか?

 とりあえず御朱印をもらって、トイレを済ませて移動しよう。
 唐津神社を出発し、しばらく走っていると右手に大きな工場が見えてきました。九州電力の唐津発電所です。今でも火力発電所はフル稼働なのかな。 



呼子でイカ
 呼子に移動してきました。夕飯の予約は17時半なので、まだ少し時間がある。時間つぶしに道の駅へ。

 やってきたのは道の駅「桃山天下市」。3年前にはここで車中泊してます。トイレに行って、お土産屋さんを物色して時間をつぶす。
 17時過ぎ、呼子大橋を目指して移動。三年前に食べられなかった呼子のイカを食べますよ。
 17:10、ちょっと早いけど、この時間だとお客さんがほとんどいないので、予約時間より早く入店しても大丈夫だろ・・・ということで入ってみる。すると、店内はやっぱりガラガラ。すぐに席に通されました。
 いか活造り定食2,750円を三人前注文。イカを食べに来たんだから、イカづくしにします。注文を終えて、周囲を見渡すと生け簀がある。イカが泳いでいるねぇ。
 すぐにお店のオヤジがイカをすくいに来ました。イカがブシューって水を吐いてました。墨は吐いてなかった。
 あとは、調理されてくるのを待つ。ネコ娘、最近、クマ兄さんの会社のiPhoneで旅行のページを見るのが趣味になりました。たぶん、この旅行記の一番の読者です。
 7分後、イカの活造りが運ばれてきました。三人前を注文したんだけど、イカが小ぶりだったからか、4杯出てきました。ちょっとお得な気分。

 そして、イカは甘くてコリっとして美味しいんだよねぇ。ここまで透明なイカは、ここ呼子か北海道か・・・って感じだね。
 いかしゅうまいとゲソの天ぷらも美味しい。ゲソ天は量が多くて食べごたえがありました。やっぱり、さっきまで生きていたイカを食べれるんだから、贅沢だよね〜。
 30分でほぼ完食。御馳走様でした。

 車に戻ると、お店の裏側にトラックが来ていました。活イカを運んできたようです。夜もお客さんがたくさんイカを食べるんかねぇ。



お風呂
 それではお風呂へ。呼子の朝市近辺を北上し、呼子台場へ。
 18:00、呼子台場の湯に到着。510円/人の入浴料のわりに、施設は新しくてきれいで快適。

 お湯はラジウム温泉ということで、普通のお風呂と感触は変わらず。もう一つ、露天風呂っぽい湯船には別の温泉が入っていて、こっちはスベスベの泉質でした。体もサッパリスッキリ最高です。
 入浴後、休憩室でアイスを食べる。至福のひと時。
 駐車場に戻り、この後の予定を検討。まぁ、予定通り道の駅鹿島まで行こう。

 ということで、車を走らせるとすぐに呼子大橋が良い感じに見えたので、車を停めてパチリ。そして、再出発。

 あとは鹿島市まで走りますよ。2時間くらい走って道の駅鹿島に到着したと思う。あまり記憶がございません。そして、扇風機をガンガン回してお休みしました。



八日目 十日目
壱岐対馬と北九州の旅 に戻る



クマ兄さんの部屋 に戻る

旅の記録 に戻る